地区案内・上津浦

名所・史跡

キリシタン
上津浦地区における名所、史跡は、多様性と独自性を特徴としている。

上津浦の人々は自然の力や霊験を崇め、山岳信仰や海洋信仰、川の神への信仰などを大切にし、年中行事や季節の変わり目にも神霊信仰に基づいた祭りや儀式を執り行ない、地域の共同体の結束を大事にしてきた。その後9世紀、唐から帰国する途中、天草地方に立ち寄り仏教の教えを伝えたとされる、弘法大師(空海)の教えや影響が広く受け入れられ、彼の存在が、地域の信仰や文化に深く結びついている。私たちも子供時代、「お大師さま」と「諏訪神社祭り」は二大イベントであった。一方、この地は「天草5人衆」で大きな権勢を誇った上津浦氏が居城を構えた地であり、「天草・島原の乱」において一揆軍の集結した地でもある。しかし上津浦氏やキリシタン関連の行事は殆どない。そこには、断絶と「入り農」の人たちによる淘汰がある。私たちは、遺構・遺物やその痕跡を通して、その奥にある当時の人々の心の世界をもかいま見ることができるかも知れない。 記事隠す

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キリシタン関連

上津浦におけるキリシタン時代は1590年上津浦氏の帰依により領民たち(約3500人)が改宗してから天草・島原の乱(1638年)までの約50年間であるが、その間南蛮寺を中心に南蛮文化が華開くことになる。往時を県重要文化財のキリシタン墓碑群や宣教師が植えたとされる南蛮樹、花瓶、燭台、マリア聖母子銅牌など数多くの遺物が静かに語りかけてくる。

≪ロザリオの聖母子銅牌≫

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ロザリオの聖母子銅牌は、右手にロザリオを持ち、懐にキリストを抱くマリアの像が刻まれている。銅牌はスペイン製でおそらく宣教師が本国から持ち込んだものを南蛮寺で使用したのではないか、と推測されている。

ところで、この銅牌については「1837年、南蛮寺境内の屋敷開きの際出土」、所在地が「正覚寺」となっているのが散見されるが、正確ではない。何故なら「南蛮寺境内」自体が特定されていないからである。旧有明町のホームページでは「南蛮寺境内付近」と説明されている、しかも所蔵は「正覚寺」ではなく、「別城家」である。その辺の事情を別城家当主別城匡俊氏にコメントしてもらいました。
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<ロザリオの聖母子銅牌について>

天保8年(1837年)11月、南蛮寺(現・正覚寺)の境内南側にあった別城家先祖の家が火事になり、その焼け跡を整理中に焼け跡から青銅製のメダリオン・ロザリオの聖母子銅牌が発掘された。

「この貴重なメダリオンが民家から発見されるということはない」と思われるのですか?
郷土史家の推測によりますと。南蛮寺にあったものを、南蛮寺が壊される前に南蛮寺境内に隣接する民家に移したのではないか、と推測されます。

 これはスペイン・マドリードの造幣局で制作されたもので。日本国内では3箇所で所有されている。

「別城家、東京国立博物館、仙台市立博物館(宮城県)」
仙台市立博物館所有のメダリオンは仙台の殿様・伊達政宗が長崎奉行から土産として貰われたものである、といわれている。一方、東京国立博物館のものは、長崎奉行のものであります。

別城匡俊氏 寄稿

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”そうだったのか”という気持ちでモヤモヤが晴れたようです。
私見ですが
1614年徳川幕府はキリスト教の完全禁止令を出し、宣教師は国外へ追放、マルコス・フェラロ神父もマカオに去り南蛮寺も取り壊されるようになる。 このとき、信徒の長老は壁に掛けてあったメダリオンを拝領し、境内の外で私的な礼拝所を作っただろう。(あるいは持ち込んだ宣教師が教会で埋葬されているかもしれない)。以来、天草・島原の乱までの20数年このメダリオンは密かな礼拝に供されていたに違いない。この頃、禁教令は公布されキリシタンに対する規制が少しずつ強化されていくが下々の領民までの統制にはまだ至っていなかった。長老は一揆衆とは行動を共にできず、天草で祈り続けただろう。しかし、上津浦の民には過酷な運命が待っていた。乱の鎮圧後、一揆に加担したということによる皆殺しである。留守を預かる長老たちに処刑の日が来た。長老はキリシタンとしてでなく、上津浦の民として処刑される。メダリオンは不要であった(キリシタンとしての処刑ならば身に着けていったかもしれない、ご加護を求めて)。こうして隠されたメダリオンはそれから200年もの間人目に触れることはなかった。

1837年、ときは天保の大飢饉の渦中、キリシタン発見のため「踏み絵」が行われている江戸時代である。メダリオンを発見した別城氏の胸中は?
蛇足ですが
天草市のホームページの紹介文
「約400年前に宣教師が南蛮寺に持ち込んだものではないかとされ、スペイン製と推定される聖母子像のメダルです。 その後、潜伏キリシタンが密かに拝んでいたものと思われます。」
「潜伏キリシタンが密かに拝んでいた」は噓っぽい

≪キリシタン花瓶≫

≪キリシタン燭台≫

≪キリシタン墓碑群≫

代官鈴木重成は、正保3年(1646)、仏教による民心安定を念願し、(南蛮寺跡に)圓明山正覚寺を創建した。それから、339年の歳月を経た昭和60年1月17日(1985年)、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を改体したところ、扁平型、自然石型、かまぼこ型、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現した。かまぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれていた。十字架は、いわゆる干十字、その左右にはのみか何かで人為的に削り取られ判読困難であるが、人名と没年月がみられる彫り込み有する。墓碑は高さ33センチ、幅52センチ、長さ54センチ。安山岩を削って作られ、かまぼこのような形をしている。
ところで、IHSはイエズス会の略紋章で、「イエス」をギリシア語で表記したときの「Ihsouz Xristoz」の最初の3文字をとっているそうで、IHSが刻まれているキリシタン墓碑は日本に3例しか確認されていない貴重なものといわれる。
こうして、これまで語り継がれてきた南蛮寺興亡のいい伝えが歴史的事実として裏付けられたのである。

≪南蛮樹≫正覚寺のナギ

正覚寺は、それ以前は南蛮寺があったところと言われており、キリシタン墓が残っている。 この樹は寺の裏庭にそびえ、土地の人々は南蛮樹と呼んでいる。これはキリシタン時代、コエリョ宣教師が海外から持ち込み植え付けたものと言われている為である。 樹齢 400年  幹の太さ 1.65m  樹高 25m