小さきとて、ロマン無きや!

<町の遺跡> 探訪

遺跡(ここでは周知の埋蔵文化財包蔵地を含む)は、「遺構」と「遺物」という二つの要素で構成される。前者は例えば古墳や住居跡など「遺された構造物」、後者は石器や土器など「遺された物」、である。それは次のように考えることができる。たとえば一個の川原石は、それのみがぽつんとあるだけでは遺構とも遺物とも認めがたいものだが、複数の石が明らかに人によって集められていれば、それはれっきとした「遺構」である。そしてそこから取り上げられた石は、それ以後、「遺物」となる。つまり、遺構とは当時の大地の上に人間が与えた何らかの影響の結果であり、遺物は遺構の構成要素の一部が切り離されて可搬の状態となったもの、といえる。 遺跡は、ある遺構や遺物がどこに多くてどこに少ないか、どのように配置されているか、どんな形をしているか、などといったことを見せてくれる。それは当時の経済や、政治、文化、すなわち社会のあり方そのものの痕跡である。また、その地に暮らしていた人々が何を受け入れ、何を排除したか、という選択の結果でもある。そのように考えると、遺跡に見る遺構や遺物の姿とは、ある時代、ある社会の精神の営みが具体的な形となって表れたものにほかならない。そして私たちは、遺構・遺物のありようを通して、その奥にある当時の人々の心の世界をもかいま見ることができるのである。

①老岳古代祭祀遺跡 ②権六古墳 ③鬼塚古墳 ④荒汐古墳 ⑤竹島古墳群 ⑥神の元古墳 ⑦台田古墳 ⑧前島古墳 ⑨朝鳥古墳 ⑩釘島龍崎古墳 ⑪釘島陸越古墳 ⑫本当の浦古墳
❶タッチョン迫遺跡 ❷谷合遺跡 ➌通山遺跡 ❹中越遺跡 ❺引陣遺跡 ❻美ノ越海岸遺跡 ❼聖地彦山遺跡

≪老嶽古代祭祀遺跡≫

日本神道理念の最も古い姿で、立石は天っ神籠(あまっかむろぎ)、周辺の配石群は天っ岩座(あまっいわくら)の跡と言われています。農耕文化社会が始まった縄文時代後期から弥生時代、古墳時代を経て平安時代頃までの祭祀様式で、老岳信仰の祖形だと考えられます。 その後、老岳神社は戦国時代に天草五人衆の上津浦氏の守護神とされ、江戸時代以降は、山麓一帯の里人たちが猿田彦ノ神を祀りました。

権六古墳

現時点では調査は行われていませんが、石室古墳ではないかと思われます。 権六とは地名で、古くからこの地域に居住する人によると、以前に剣などが発掘されていたと伝えられています。

鬼塚古墳

 須子 羨道(せんどう)の部分は破壊されているため、わずかに痕跡をとどめるのみですが、封土(盛土)の下に側壁と天井の架石が現存します。6世紀ごろの横穴式石室と推定され、周りの畑から須恵器の破片、付近の海岸から石器類が発見されています。

朝鳥古墳

 大浦 盛土の代わりに礫(れき)をもって長方形に積みあげた集積墓で、古墳時代末期のものと推定されています。

台田古墳

1号古墳は直径約7mで、2号古墳は南北に1.5m、東西に6mの円形塚です。長さ2mの板石や積み石があらわになっており、未発掘ですが、横穴式石室と考えられます。

竹島古墳群

竹嶋は大浦港の沖、北に約250mにある周囲約4kmの小島で、南側の丘陵には6基の円墳があり、中央の丘陵にも古墳らしいものが1基あると思われます。  3号墳は、東西11m、南北8mの楕円形で、現存するものでは、高さは1.5から2m、石室は奥行き1.75m、幅は奥壁側で1.72m、入口側で1.68mとほぼ正方形に近く、床面は直径2~3cmの円礫を敷いてあります。

荒汐古墳

神の元古墳

前島古墳

釘島陸越古墳

釘島龍崎古墳

本当の浦古墳

南蛮寺跡 上津浦城跡 妙楽寺跡 唐津武士の墓 五輪塔 五輪塔

≪文化財≫

正覚寺キリシタン墓碑群 天草古地図 益田あき子氏所蔵 ロザリオの聖母子銅牌 別城匡俊氏所蔵 キリシタン花壼 亀子俊道氏所蔵 キリシタン燭台 赤城哲也氏所蔵 古代石器コレクション
また、弘法大師の存在は天草地方の宗教的な風土や信仰に影響を与え、その痕跡は今でも見ることができる。命日にあたる5月10日(旧暦3月21日)に毎年行われている弘法大師(空海)をしのぶ伝統行事「お大師さま」は寺院の宗派を超えて執り行われる。 1591年7月25日、その前年に帰国して豊臣秀吉にも面接した遺欧使節の四少年達が、コレジヨ創設者ヴァリニヤーノ神父にともなわれて入校している。さらにこのコレジヨにはノビシアド(修練院)が併設されていて、そこでは遺欧使節等がヨーロッパから持参したグーテンベルグ式金属活字印刷機を使って、イソップ物語や平家物語、ラポ日辞典等文化史上世界的に注目される貴重本が多数印刷出版されている。彼らはメスキータ神父にともなわれ、1582年から8年をかけてヨーロッパ各地を廻り、殊にローマでは教皇グレゴリオ十三世およびシクスト五世の戴冠式に招待される等盛大な歓迎をうけた。  この図は当時のドイツの新聞号外(京都大学附属図書館蔵)からとったもので上段中央はメスキータ神父である。彼らが帰朝後当時のコレジヨに学んだことは注目すべきことである。天草コレジヨ、天正少年使節にかかる史料は、天草コレジヨ館に展示されています。 天草にキリスト教が伝わったのは、ザビエルが日本上陸の17年後、 1566年にポルトガル出身の修道士、ルイス・デ・アルメダイが下島・志岐城主に、招かれたことがきっかけとなります。