天草(有明)の歴史

自然豊かな天草は、太古の昔から人々が住みついていた、と考えられている。上島・老岳山中には、農耕文化社会が始まった縄文時代後期から弥生時代につながる祭祀様式の跡、老岳古代祭祀遺跡がある。また大浦周辺では多くの古墳等が存在する。下島・沖の原遺跡では貝輪を着装した縄文人の埋葬人骨や骨角器の出土品がある。

時代は下って、14世紀,南北朝時代になると、天草諸島は上津浦氏の他、志岐氏、宮地氏、天草氏、長島氏、大矢野氏、栖本氏、久玉氏の8氏によって小競り合いはあるものの、天草の各領主が対外的には領主連合的性格をもってことに当たっていたと推測されている。このうち、上津浦、栖本、志岐、天草、大矢野氏が後に天草五人衆となる。

豊臣秀吉の時代、秀吉の九州平定で功があったキリシタン大名小西行長は、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石あまりを与えられた、そこであらたに宇土城を造ることになるが、天草五人衆は城普請の要求を拒否したため(天草国人一揆ー1589年)、領主の小西行長は助勢に来た加藤清正と共に攻め、五人衆は滅亡あるいは服属の運命をたどった。上津浦氏は小西行長の臣従となり、翌天正18年(1590年)に洗礼を受け、領民とともに改宗、南蛮寺を建立したと伝えられている。その後、小西行長は関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛、斬首された。小西行長の没落とともに上津浦氏も地域を追われ、上津浦城は廃城となったと思れている。


天草・島原の乱

”関ヶ原の戦い”の後、小西行長は改易、有馬晴信のお国替えにより大量の浪人が発生していた。そしてその後入封してきた松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民たちは、苦役や過重な年貢負担、これに藩によるキリシタンの迫害、更に飢饉の被害まで加わり、過酷な生活を強いられていた。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官を殺害、ここに島原の乱が勃発する。これに呼応して、数日後に天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は、上津浦に上陸、島子の戦いを経て、水陸両方から本渡城を攻め勝利するも、九州諸藩の討伐隊の後詰の攻撃を避けるため、島原半島に移動し廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流するが、兵糧攻めと圧倒的な数の討伐軍の総攻撃を受け、原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された(寛永15年2月28日(1638年4月12日))。このとき上津浦の民のほとんどが皆殺しにされた、といわれる。

町の再生

乱ののち、1639年には鎖国政策を引き締めて、キリスト教の禁教令を強化、さらに寺請制度により全住民は地元の寺院に登録され、仏教僧によって宗教的所属が保証されることが必要とされた。一方、小西行長の時代、「天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタン」(wiki)であった、といわれるが、乱後1643年には天草諸島の人口は、5000人に激減、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じた。天草は1町86ヶ村に分けられ現在の上津浦区域の原型が誕生するが、 寛永18年(1641年)、鈴木 重成が天領となった天草の代官に任じられる。 重成は仏教への改宗を勧め、南蛮寺跡地に正保3年(1646年)正覚寺を建立する。その後、各藩からの農民移住は増え、人口は、1659年には全域では16000人に増加、1805年には12万人に増加した。しかし、ここで特徴的なことは、とくに天草・上島では、土着の民は皆殺しにされ、乱後の農民移住・入り農によって回復されてきた、という事実である。したがって、現在の私たちのルーツは九州本土・佐賀や鹿児島にルーツを持つ人が多い。そのため、キリシタンの歴史について”別のことだ”として無関心を装う人が多いのかもしれない。

寛文4年(1664年)5月、肥後富岡藩(天草藩)に転封。 寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。その後200年間、天草は幕府の直接の統治下に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに他藩への編入が行われる事はなかった。明治維新後、いくども隣接の村と合併あるいは分離を繰り返したが、昭和31年6月1日に楠甫・大浦・須子・赤崎・上津浦・下津浦・島子の7ヶ村が合併し有明村となり、その後、昭和33年1月1日に町制を施行。 昭和41年九州本土と天草諸島を結ぶ橋が完成。 平成18年3月27日本渡市・牛深市・有明町・御所浦町・倉岳町・栖本町・新和町・五和町・天草町・河浦町の2市8町が合併し天草市が誕生、現在に至る。

*参考資料*
島原の乱(wikipedia)
上津浦城跡.pdf (天草市文化財調査報告書)